竹島問題とはなんなのか?
日韓の間で、最初に竹島についての領有権問題が発生したのは1692年のことです。
それに遡ること70年ほど前に、徳川幕府から竹島への渡航許可を得て、鳥取藩米子の大谷家・村川家は、あわびの採取やあしかの捕獲などを開始しました。
1692年、村川家が例年のとおり竹島に赴くと、魚採を行う多数の朝鮮人に出会います。
翌年には、大谷家が同様の場面に遭遇し、2名の朝鮮人を連れ帰ります。
幕府の命により、対馬藩はこの2名の朝鮮人を送還するとともに、朝鮮に対し、竹島への渡航禁止を求めますが合意には至りませんでした。
以後、朝鮮との友好関係を重視する政策にもとづき、日本は竹島への渡航を禁止することとなります。
1969年のことです。
大谷家が1963年に連れ帰った2名の朝鮮人のうち、安龍福は1969年にも再び来日しますが、韓国側の領有権の主張は、安龍福のこの時の供述内容が根拠のひとつとなっています。
つまり、徳川幕府が『竹島は朝鮮領である』と認めたというものです。
日本側は、これについては『そのような事実は無い』という立場をとっています。
1969年以降、竹島への渡航は禁止されていましたが、明治になって再び、竹島でのあしかの捕獲が盛んになります。
あしかの捕獲は、日本人・朝鮮人も行っていたと思われ、過当競争となっていました。
隠岐島の住民 中井養三郎の願い出により、明治政府は、『竹島』を正式名称と認め、島根県隠岐島司の所管と決定し、領有権の再確認を行います。これが1905年のことです。
その後、島根県知事によって許可制となったあしかの捕獲は、太平洋戦争が始まる1941年までつづきます。
敗戦により日本は、サンフランシスコ条約を締結します。条文の中には『朝鮮の独立と、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮の放棄』が明文化されますが、韓国はこの時に、竹島を含めて放棄することを記載させようとします。しかしアメリカの反対により、竹島の領有権は日本にあることを再確認することとなりました。
1952年7月には、日米行政協定にもとづき、竹島は、在日米軍の爆撃訓練区域のひとつとして指定されます。
しかしその半年前、1952年1月、李承晩韓国大統領は一方的に『李承晩ライン』を設定し、竹島を韓国領であると主張します。
以後、日韓の間には、竹島の領有権をめぐって、対立が現在もつづいているのです。
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